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"大衆演劇が在る状態"が好きなので

「見巧者」の真似事はじめ

「上方芸能」のバックナンバー198号に載っていた「見巧者(みごうしゃ)」について書かれた記事から、最近観劇しながら考えていることに、とても良い示唆を受けました。

 

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少し長くなってしまいますが、引用します:

「現在に見巧者は生存可能か?」
情報科学芸術大学大学院教授 小林昌廣)

見巧者。直訳すれば「見ることに巧みな者」ということになる。文筆家の天野祐吉は、この見巧者について、こんなことを述べている。

"で、そういう見巧者というのは、見方がじつに細かい。芸のディテールにうるさい。たとえば、近松門左衛門の「曽根崎心中」を見るとしますね。いまの観客だったら、あんなことで死ななくていいんじゃないか、とか、二人を苦しめている封建的な社会制度にモンダイがあるんじゃないかとか、広い視点からものを言う。

でも、当時はそういう視点は閉ざされていましたから、必然的に観客の目は、芸の細部へ細部へと、向けられていったんですね。で、「きょうの幕切れの藤十郎は、もうひとつ手のあげ方が低かった」なんてことを言う見巧者が生まれていったんだと思います。

つまり、目(と耳)だけが異常なくらい洗練された観客が多くなっていったわけで、そういう観客の要求にこたえるために、芸もまたどんどん洗練されていく。…" (引用元:http://amano.blog.so-net.ne.jp/2005-12-14

 

また、著者小林昌廣さんのこどもの頃の話。

歌舞伎座の常連に、目が見えないお年寄りがおられて、見えないけれど、いつも最前列に座るのを不思議に思って見ていたと。ある時、2階席からそのお年寄りが、舞台に向かって上半身を前のめりになり耳をそばだて、文字通り「身体で観る」ということをしていたのを見た…と。読みながら、その方が舞台に食らいつく様子を、しばし想像していました。

 

「広い視点からものを言う」のを一旦外す

「広い視点からものを言う」・・・あまり自覚がなかったのですが、現代のわたしたちは、概ねそういう見方をしていると思います。「あるべき論」や、何かにつけジャッジしようとしたり。それは、自然なことではなく、一定のトレーニングを経て会得したものやったんやなあと、上の記述を読んで思いました。具体的には小中学校の道徳教育とか社会科、国語の授業からでしょうか。

「広い視点からものを言う」ことは、どちらかというと良いことと思っていました。しかし、、、大衆演劇のお芝居を観劇するには、そういう見方はちょっと置いておいても良いかもしれない。

本来の「見巧者」にはとてもなれませんが、"なんちゃって見巧者"?を気取って見ると、新境地、とっても楽しいことがわかったんです。

 

「敷居のまたぎ方」が3回とも違う

「情けの捕縄」というお芝居。何度か見たしもう見なくてもいいかな〜と思ったのですが、たまたま当たってしまった。

話の筋はわかっているので、いつもみたいにメモも取らず、余裕を持って見ていました。

役人が、うどん屋の親爺さんの長屋を尋ねる。最初、ふらっと訪ねてやってきた時は、さらっと敷居をまたぐ。そのためらいのない入り方で、役人と家人が親しい関係であることがわかる。

2度目、ここに逃げた罪人がいるかもしれないと思いながらやってきた時(実際匿っている)。少し重々しい足付きで、敷居をまたぐ。本当は入りたくない、役人の気持ちが垣間見える。

3度目。さっき「ここにはいません」と言われて引き上げたものの、またやってきて。「やっぱりいるんだろ…」と言いたげに踏み込む。この3回目の時だけ、敷居を越えた足を、かかとから着地させて、にじり、と、入っていくんです。1度目と2度目は足先から降ろしていたのに。

意識すれば、さらにいろいろ見えてきて、すごい、わ、こっちもこんな細かいことやってたんや〜と、どんどん見えてきて、、、最後、何度も観たお芝居なのに、おそらくいつも通りに演じられていたのに、わたしは、これまでで一番泣いたかも知らないと言うくらい、泣いていました。

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「広い視点」から見ると、役人とうどん屋の親爺さんが罪人を見逃そうとする「情け」に対し、じゃあ被害者の気持ちの方はどうなのかと、葛藤に苛まれてしまうのですね。もちろんそういう視点は大事なのですが、それによって見えなくなってしまうものが、こんなにたくさんあったのです。 

 

毎日見ているからこそ見える

キメ、山あげ、所作の数々。役者の切磋琢磨の賜物。

身体から身体へ、伝えられた記憶の再生。

「もしかしてこのシーンだけやりたくてこのお芝居やっている?」みたいに思うものも。

でも、それくらいが面白い。潔いほど面白い。毎日の生の舞台だから、日々の悲喜こもごもが混じる。それらがにじみ絵のように重なった芸のディテールは、毎日観ているからこそ出会えるものなのでは…と思ったんです。

 同じ劇場、同じ劇団の公演に、毎日客席に座っている方がある。正直、飽きないのかな…と思っていました。でも、ようやく理解できました。最高に贅沢な見方。じっくりドーンと構えて、ようやく見えてくる景色。わたしのようなお外題を選り好みしてさもしく右往左往している人間には、到底見ることのできない景色が、見えているのだと思います。

 

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たとえ素人であろうとも

「広い視野から物事を言う」ことは、上から目線の、ちょっと偉そうな視点も、きっと入ってしまっている。現代人が過去の事を、狭く未開の世界だと考えるのは、大なり小なりあると思う。

そういうのをガバっと外し、それこそ「身体で見る」くらい肉薄して、芸のディテールを、たとえ素人であろうと目を凝らせば、きっと見えてくるものがあって、、、そういう見方は、飽きることがないどころか、終わりなき幸せの境地ではないだろうか。

考えて、一人でニヤ〜っとしてしまいました。こら楽しい、ますますハマりそうということです、はい。。。

 

先ほどの引用文中の天野祐吉さんのブログには、以下のようにも書かれてありました:

歌舞伎や文楽の観客のなかには、見巧者がたくさんいて、「よっ、待ってました!」とか、「日本一!」とか、「引っ込め、大根!」とか、応援や批判のやじを飛ばして、舞台の質を支えていたんです。そう、舞台というのは、役者や芸人がつくるもんじゃない、観客がつくるんですね。…

「見巧者」と言われる人もまた、舞台の役者や芸人によって育て鍛えられる関係だったのではなかろうかと、思ったのでした。

 

 

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