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"大衆演劇が在る状態"が好きなので

大衆演劇と"忠治" 筑豊國太郎頭取 舞踊「忠治侠客旅」2017.1.9 筑紫桃太郎一座花の三兄弟@和歌山県岩出市夢芝居

大衆演劇 筑紫桃太郎一座花の三兄弟 舞踊ショー

 

震えが止まらなかった。

大衆演劇は、"時の澱"が込められた宝箱だーー

 

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筑豊國太郎頭取の個人舞踊「忠治侠客旅」

 

 

「リクエストはないですか。ないですね、、、」

さっと立ち去ろうとされたので、思いきってお願いしたのです。

「頭取の"忠治"が見たいです」

「忠治?ええと島津亜矢のかな。あれはねえ、もっと、体調がいい時じゃないとね」

「はい、すみません!!また来ます。また来ますので」 

慌てて言いました。

「みなさん、忠治の舞踊ね、綺麗な着物で踊るものではないんですよ。追われて追われて、ボロボロになって、が、本当の忠治。」

ひとしきり"忠治"について話されて、

「・・・踊りましょう。(楽屋に向かって)俺の"忠治"の、出してといて」

そう言って、踊ってくださった。

 

客席の後ろから登場。舞台に向かってあるいてゆく。

 

ひとめでわかった。

何年もの間、数え切れないくらい踊ってこられただろう重さが。

骨の髄まで染みついて、"忠治"が憑依しているのと違うかとさえ思った。

 

うまいとかそういうのではない、舞踊ですらないのかもしれない。

とか、書いてますが、じつは意識が飛んでしまって、あんまり覚えていない。。。

 

でも、

(ああ、大衆演劇だ。忠治だ。)

そう思ったことだけが、頭にこびりつきました。

 

格好よさとか、"芸"がどうとか、、

むしろそういうものを一切捨てて、"忠治"に添うてゆく執念。

 

 

今、朝倉喬司氏の「走れ国定忠治」を読んでいるところで

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現代書館 1996,ISBN:4768466818

 

"忠治"って、こんなに面白かったんやと、目鱗ボロボロでした。

恥ずかしながら表面的なことしか知らなかった。

 

『死を予定され、受け入れる』身体

第1章「国定忠治紀行」の、「『死を予定され、受け入れる』身体」という一節に、次のような文章があります:

"にっこり笑って人を斬る、国定忠治はよい男。"

こんな文句が、テキヤ衆のバナナのバサ売りのタンカにある。数え唄ふうに数字をタンカにのせていく「二」の部分が、この「にっこり・・・」ということになる。このフレーズは、つまりは「にっこり笑って、自分が死んでいく」態度の、いわば照れ隠しの反転鏡像である。

現に、国定忠治が嘉永三年一二月、大戸の関所に磔刑に処せられた時、彼はつけるのが決まりの目隠しを断り、しかも「笑って死んでいった」という地元吾妻郡坂上村の故老の話が残っている(萩原、前掲書)。本当かどうか確かめる術などないが、フォークロアとしては確実に残っている。

そしてこれは、「死を予定され、受け入れる」身体への、歴史的に形成されたなみなみならぬ思い入れを基底にして、忠治伝説の成立の核心をなすものとして、「残っている」といわざるをえない。(p.32)

 

すごい。すごい。

読み終えてないので、また改めて書かないとなりませんが、

先日、舞踊を見てーー 

大げさかもしれませんが、思ったんです。

大衆演劇は、国定忠治そのものだ、と。

 

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"筋を通した この生き様も
今宵限りと 仁王立ち
小松五郎を 万年溜の
水に浄めりゃ 赤城の月が
うつす忠治の
うつす忠治の 旅姿

「たとえ世間は変わろうと、
忠治は忠治で生きていかァ。」"

(「忠治侠客旅」歌唱 島津亜矢 / 作曲 村沢良介 / 作詞 たなかゆきを)

 

2017年1月 筑紫桃太郎一座花の三兄弟公演

夢芝居(和歌山県岩出市森118-1)
2017年1月30日まで

【昼の部】開演時間:12:00から
大人 1,500円 / 小人 1,000円
【夜の部】開演時間:17:30から
1,000円

 

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