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chomoku

"大衆演劇が在る状態"が好きなので

道具愛は芝居愛・舞台愛と思う

さる週末。土曜にがっつり働き、明けて日曜、昼夜でお芝居見るぞーっと、大阪の劇場へ。

お昼の部の観劇。戸惑いました。

第1部舞踊ショー。着付けが、、、美しくない。。。半年前にこの劇団さんを見た時も思いましたが、その時よりもさらに雑で、帯はよじれて、襟元は歪み、袴はゴワゴワ、、、品質ではなく、手入れと丁寧さのこと。

座長は「うちは芝居。お芝居を見て欲しい」と、つね言うておられる。。。第2部、そのお芝居についても、うーん、どう捉えてよいのか、戸惑う。

古典で、ケレン味のあるお芝居。ストーリーは、読めば読むほど歴史的・心理的・演劇的・多重要素連なる物語で、頭がクラクラします。そんなすんごい物語を、どこまで掘りさげ、咀嚼してやっておられるのかが、どうも見えてこない。表層的、やっつけ感。プロットをなぞらえているだけのように思いました。激情迸る、熱演なのだけど。

設備面が十分でない環境での公演ですから、機材や見栄えの不足は仕方ない。でも、お芝居を見て、戸惑ってしまうのは、そういう事ではなく、「お芝居への愛」のあり方。

お芝居がウリ。でも、その言葉通りのことが、お芝居から感じられないのはなんでなんだろうと、もどかしい。

"熱演"なのに、胸の芯に響いてこないのは。

登場人物への深い愛が、彼から感じられないのは、お芝居を通して自己実現、自己表現に見えてしまうから。。つまるところ、お芝居への愛より、"自己愛"、承認欲求の方の強さが前に出てしまっているからではないだろうか。

わたしが思う大衆演劇のお芝居への愛とは、演じ手が、過去の演じ手の姿と重なり、彼彼女が扮する登場人物そのものが舞台に立ち、嘆き、怒り、慌て、喜ぶ、、そんな風に受け取れる演技を見せてもらえたときに、胸の芯で湧き上がるもの。

ケレンとはいえ、ただ見せ場を作るだけのものではないはず。とっても難しいと思う。今回のこれは、、大衆演劇ではなく別物、ケレンコラージュ劇「やってみた」みたいな見方をすれば、なるほどと納得できるかな。。。

でも、"熱"がある。強い衝動がある。だから、こうして舞台に立っておられる。その衝動、激しさが場を牽引し、舞台を成立させている。そして舞台に添い、一所懸命見ているお客さんも、おられる。

 

1つ、わかったのは、、、わたしにとって、ということですが、道具を大事にしてない、のは、舞台を観る上で、かなりダメージを受けることなんやな、ということです。道具の善し悪しではなく、扱い、という意味で。舞台道具、衣装、音響、照明、総じて、「もの」の扱いが、雑で荒い。それって道具に対する「愛」がないんじゃないかって、気になって仕方ない。

お芝居での道具の扱いと、舞踊での着物の着付けや手入れは、つまるところ同じかな、、と思い至りました。。「うちは芝居で」と舞踊を大切にされないなら、もう舞踊ショーをやらないほうがいいのではと思ったのですが、それで済むというものでもないような。。

とにかくこの日は、初手からの舞踊ショーでの着付けのあまりの粗雑に目が点になり、なのに、どうしてそうなのかを見届けたいと凝視、染み付いた性癖のせい、で、おかげで約1時間、かなり当てられてしまい(食べ物で言うたら好きじゃないものを無理にたくさん食べてしまったような)、それを引きずったままでの観劇で、余計よくない状況を自分で作ってしまった。

行ってみたら、第1部が舞踊ショーだったので、後の祭りなのですが、思い切って舞踊を見ずに、お芝居だけ見たらよかったな。。。と、後味が悪い観劇になってしまいました。

長々とウダウダもぞもぞ書き連ね、自己嫌悪も背負って。まとまらないまとめを:

お芝居への愛を表す方法が、わたしがこうあってほしいと考えることと、違うということ、それだけのこと、でも看過できないのは、見る側は所詮気楽な立場だけれど、演じる側こそ、見る側がしんどい時は、それ以上にもがいておられるはず。苦しんでおられるはず。そう思うて、、、一人勝手に悲しがった、んです。

(あーでも道具は大切にしよう。。。きっとそこから変わるのでは なんて。。。)

 

 

 

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