chomoku

"大衆演劇が在る状態"が好きなので

覚書:「義理と人情 長谷川伸と日本人のこころ」(山折哲雄著・新潮社 2011/10)

f:id:chomoku:20160913082200j:plain 

"『瞼の母』『一本刀土俵入』『日本捕虜志』などで知られる明治生まれの大衆作家・長谷川伸。終生、アウトローや敗者の視線を持ち続け、日本人のこころの奥底に横たわる倫理観、道徳感覚に光を当てた。その作品を読み直し、現代の日本人に忘れ去られた「弱者へのヒューマニズム」「含羞を帯びた反権力」の生き様を考察する。"(裏表紙の言葉より) ISBN 978-4-10-603689-7

一線を画すところとは 〜「虚無の彼岸」

"改めて強調しておけなければならないことであるが、長谷川伸の小説や芝居に登場する主人公で勧善懲悪に染まっているような人間はひとりもいない。そこのところが誤解されやすいところなのであるが、大衆的な人気を博する時代小説や歴史物などとは根本的に違っている。" 

"だからその作品の舞台には絵に描いたような善人や極めつきの悪人などははじめから姿をあらわさない。人間をみる目がそれだけ厳しいともいえるが、反面で無類の優しさをにじませることにもなる。" 

"その場面では勧善懲悪どころか、そもそも善悪の敷居をこえてしまっている善悪の彼岸、といったいい方があるが、それに近い…長谷川伸にとって善悪の彼岸とはどのような「彼岸」だったのだろうか。それは無の彼岸、虚無の彼岸だったのではないだろうか。" (p.202-204 第11章「埋もれた人々を掘り出したい」)

そしてそれを裏付ける根拠として、以下の文章が続きます:

"『瞼の母』の最後の大詰めの舞台が思い浮かぶ。せっかく巡り会えた生みの母親から愛想づかしをされて、そのまま後ろ髪を引かれるように番場の忠太郎が立ち去る場面だ。無言のまま舞台を去る忠太郎の所作にト書きして、作者は「虚無」の心になって寄ってゆく、と演出の指示を出していたのである。"

びっくり!ふ、深い。。。これからこのシーンを見る目が変わりそうです。

 

作者自身の物語 

"長谷川伸といえば、やはり『瞼の母』を思い出さないわけにはいかない。この作品は戯曲ではあるけれども、作者自身のことを書いたものだった。生き別れたままの実母を恋い慕い、ついにその思いが極まって物語化されたのである。"

"「わたしの戯曲のうち、『瞼の母』の忠太郎も『一本刀土俵入』の駒形茂兵衛も孤児である。その他に股旅物という戯曲の主人公のたいていは、親のない子である。親があって家がある子なんかでは主人公にして、することなすことの一々に、同意して書く気になれないからである。若かった昔のわたしと、一っ帳場(土木の現場)に働く泥んこ仲間には親のない子がいくらでもいた。そんなことが今いったようにさせるのだろう。」(長谷川伸全集)

長谷川伸には、実子はいなかったようだ。そのかわり、見も知らぬ若者たちに密かに学費を出し、大学を卒業させ、就職の世話までしていた。それが、五人や六人でなかったという。" (p.214 あとがき)

 

示唆に富む本でした。

1つだけ、ちょっと違和感?なこと・・・

この本のオビの裏面に「その心情、忘れていませんでしたか?」と書かれているのですが、ちょっと違うかなあと。「忘れている」のではなく、これらの"心情"は、時代を問わず、やはりマイノリティのもので、日本人だったら当たり前というものでも、多数の人が共有していた意識でも、ないと思う。

なので、副題の「日本人のこころ」というのも、大きすぎかなあ〜。「アウトサイダー賛歌」とかなら、ウンウン!とうなづきたいところ。。

 

www.shinchosha.co.jp

 


Copyright © chomoku All Right Reserved.