chomoku

"大衆演劇が在る状態"が好きなので

気骨のアウトロー賛歌 「三國連太郎 沖浦和光対談「『芸能と差別』の深層」より

大衆演劇が大好きだったという民俗学者沖浦和光さん。「『悪所』の民俗誌」「旅芸人のいた風景」等の著書、インタビュー・講演などでも、折に触れ、大阪で劇場通いしていたことを語られています。

「『芸能と差別』の深層」は、沖浦さんと、俳優の三國連太郎さんの、397ページにわたる対談集です:

f:id:chomoku:20160624191641j:plain

筑摩書房 「芸能と差別」の深層 ─三國連太郎・沖浦和光対談 / 三國 連太郎 著, 沖浦 和光 著


いずれ劣らぬ反骨精神。お二方の対談は、どのページをめくっても、民衆芸能への深い愛と造詣に溢れた言葉の応酬で、あーいいなあいいなあと、中でも「能」の観阿弥世阿弥の話には、びっくり。宝物を見つけたような話、涙しながら読みました。

 

能の曲は、明治になるまで観阿弥世阿弥親子が書いたと思われていなかった

「江戸時代の文献では、観阿弥世阿弥親子はせいぜい振り付けして舞ったにすぎない。能・狂言のテキストである謡曲を書いたのは、実は学問のある貴族か僧侶であろう、乞食と呼ばれた芸能民がこのような名曲は書けるはずがない、というわけです。」(沖浦)


ところが、明治時代になって、室町時代の名曲とされていたかなりの部分が、実際に観阿弥世阿弥親子によって書かれた曲であることがようやくわかり、また、「風姿花伝」のようなすぐれた芸能論なども世に出たのだと。。。

「乞食の分際と蔑まれて諸国を回る旅芸人が、折を見て作家活動をし、芸術論までものにしていたことが、死後五百年もたってやっと分かったんですね。」(三國)

「おそらくそうやって、苦しい生活の中で、懸命に捜索活動をやったんでしょうね。能の曲は今までに千二百曲以上作られています。今日でも上演されているのは、約二百三十曲ですが、ほとんどすべてが貧窮時代の曲なんです。後代になってお上から扶持を貰うようになって、権力におもねって作った作品は、全部廃曲になっています。」(沖浦)


そして、三國連太郎さんが、こう締めくくります:

世阿弥は、公家から「乞食所行」と言われてますね。しかし、そう呼ばれながら耐え続けた頃の作品が最高だと言われているんですよね。このことは、私たち芸能者が肝に銘じておかねばならない歴史的事実だと思います。」(三國)

 

 

野卑と下品と自由奔放が民衆芸能の持ち味

野卑と下品と自由奔放が民衆芸能の持ち味なんです。もともと民衆芸能の源泉は、中世以来の門付芸と大道芸にあるわけですから・・・」

『洗練された上品』さなんて、所詮は頭だけで考えた拵えもの、表面だけをなぞった綺麗事であって、本来の芸能にとってはむしろマイナスです。」(三國)


と、三國さんが言えば、沖浦さんが応える:

ドロドロした世界で暮らして居る民衆の生きざまが投影されていない芝居は、やはりダメですよ。社会の片隅に吹き寄せられながら、肩をすぼめて生きている人たちの悲しみや苦しみを描き出してこそ、本当の民衆芸能と言えるんです。」(沖浦)


お二人とも、なかなかなぶった切り。しかし、ここまで言い切るのは、民衆芸能の「深層」に、まっとうな理解が得られないことへの憂い、「中央文化」に取り込まれた結果、本来のスピリット(反骨精神)が消されてしまうことへの強い抵抗、警鐘ゆえと、解しました。

迎合するな、矜持をもてと、言っているのだと思います。

 

色悪を活写する鶴屋南北・海の民の堕地獄の悲哀を描く世阿弥

「四世鶴屋南北は、作劇法もそうですが、その作品に出てくる人間像の新鮮さもすごい。当時の儒教倫理や勧善懲悪思想による皮相な人間観と真っ向から対立しました。」(沖浦)

南北の作品から色悪や賎民層を取り除いてしまうと、その作品はたちまち主題の精気を失ってしまいますし、時代のリアリティが消え失せてしまう・・・」(三國)


清濁併せ持つ人間の性に目をそらさない表現。

また、世間から下とされてきた者たちの表現や作品が、なぜ後世にわたり人びとの魂を揺さぶるのか。

世阿弥が手を加えたとされる『鵜飼』『阿漕(あこぎ)』『善知島(うとう)』の三曲が、やはり素晴らしいですね。今日では『三卑賎」とよばれて代表的な名曲になっていますね。」(三國)

仏教の説く十重禁の中でも、最も重い戒律である<不殺生戒>を犯さなければ生きていけない、当時の海の民・川の民の堕地獄の悲哀をまともに描いています。そして、諸国一見の僧によって、仏の慈悲によって地獄に堕ちた魂が救済される・・・」(沖浦)


弱い側の悲哀と苦悩に寄り添う。そこにすぐれた芸術性があった。苦しい生活の中で、脈々と育まれてきた。その芸能者、アーティストと呼ばれる人が、どっちを向いて創作や表現活動をしているのか、姿勢が、問われるのではと思います。

 

面白いのは裏街道

どの章も面白く、書き出すときりがないですが、あと1つだけ、、、最終章の言葉です:

「所詮、この『浮き世』は『憂き世』です」(三國)

「大自然と実人生の摂理をうまく表現できるのは、『芸能』の力だけではないかと、私は常々思っているんです。芸能の歴史をひもといてみても、人生の裏街道や虚の部分を表現できるところに、役者の妙味があるんではないか。」(沖浦)


 沖浦さんの言葉に、三國さんが「役者冥利に尽きます」と、返されます。

三國連太郎さんが2013年、沖浦和光さんが2015年。

お二方がこの世を去られた後、数年遅れながら本を手にし、胸やら目頭やらを熱くしながら、読んでいます。

 

 

 

Copyright © chomoku All Right Reserved.