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chomoku

"大衆演劇が在る状態"が好きなので

「わたしは幸せだ」〜映画『モンテ・クリスト伯』ファリア神父のことばと大衆演劇のお芝居の愁嘆場


巌窟王」というタイトルでも知られる、アレクサンドル・デュマ著「モンテ・クリスト伯」。その映画版がありまして:

www.coda21.net

 たまたまレンタルビデオで観る機会があり、めちゃめちゃ驚いたシーンについて、書きたいと思います。

「わたしは幸せだ」

舞台は19世紀初頭のフランス。親友に嵌められ、無実の罪で「シャトー・ディフ」に投獄されてしまった主人公エドモン・ダンテス。一生出られない、劣悪な場所に監禁されただけでなく、悪魔のような看守から、過酷な拷問を受ける。絶望のどん底で、死を決意したとき、隣りの独房に、同じく謂れなき罪を着せられ投獄されていたファリア神父という老人と出会うことで、救われます。

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ファリア神父は素晴らしい知恵者で、エドモンに対して、自分の持てる限りの知識を授け、絶望する若者を励ましつづけます。

やがて脱獄を企てる二人。しかし、司祭はとうとう死の淵に。。。

あと少しでこの地獄から出られるかもしれないのに!神父、どうか、生きて、一緒に!と、叫ぶエドモンの手を握りながら言うのです。

「わたしは幸せだ」と。


ええええええ。びっくりしました。


だって、ファリア神父は、エドモンよりもずっと長く、この監獄に閉じ込められ、拷問を受け、その生涯のほとんどを、孤独と絶望のどん底で過ごしてきたはず。それなのに「わたしの人生は幸せだった」というのです。

 

映画はこの脱獄後からが本番というか、スペクタフルな見どころ満載、でも、わたしの頭のなかは、ファリア神父のセリフでいっぱいになってしまい。

しばらく引きずり、もんもんと考えつづけ、あるとき、少し言葉にすることができました:

「ひとが『幸せな生涯だった』と思えること、それは、生涯に1度、たとえ死ぬ間際の、ごくわずかの時間でも、誰かから充足感を与えられることで、もたらされる境地なのかもしれない」

にわかに信じられませんが、考えているうちに、だんだんそのような境地があることが、理解できるような気がしてきました。

そうすると、どう言ったらいいでしょう、生きることが、ちょっと楽になったというか、そんな全てにわたって幸せを感じられなくても大丈夫と思えるというか、、、うまくいえませんが。

 

 

「おめえさんに会えてよかった」

たとえば「沓掛時次郎」のお芝居で。

沓掛時次郎�@

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ヤクザ渡世のしきたり、一宿一飯の恩義のため、時次郎が、何の恨みつらみもねえのに斬ってしまった六ツ田の三蔵が、息も絶え絶えに、時次郎に妻子の見守りを託し、わずかに笑みながら「最後におめえさんのような立派な渡世人に会えてよかった…」と言う場面。

「なんで"よかった"やねん」なんですが、この三蔵、長いこと孤独だったんですね。親分亡きあと、子分たちはみな羽振りのいい一家に寝返るなかで、たった一人、死んだ親分の義理に生きていたのです。孤独だった。だから、最後に、時次郎のような、自分と同じ、徹底した渡世人として生きる人間に会えたことが、どれほど嬉しかっただろうか。だから、「よかった」と言ったのだと。。。

 

 

大衆演劇のお芝居の愁嘆場で

大衆演劇のお芝居を観ていると、このような愁嘆場は、結構な頻度で出てきます。あるとき、お芝居メモから数えてみたら「あの座長さん1週間で ○回も死んではるわ〜」みたいな、みもフタもない言い方ですみません。

でも、そんな愁嘆場を、映画「モンテ・クリスト伯」のファリア神父の

「わたしは幸せだ」

というセリフを思い出しながら見ることで、この不可思議な世界に、ちょっとだけ、近づけるような気がしています。

 

ーー 「君はわたしの息子だ。この哀れな老人のもとに、神が遣わしてくれた、息子なのだ。」(『モンテ・クリスト伯』ファリア神父のことばより)

 

 


 

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