chomoku

"大衆演劇が在る状態"が好きなので

2015年12月18日「大衆演劇と新世界」(連続講座・第2回)講師鵜飼正樹さん 於:大阪市立阿倍野市民学習センター

大人気講座の第2回

f:id:chomoku:20151220091356j:plain

鵜飼正樹さん所有・古い大衆演劇のポスターから
「ケレン」が得意だった澤村源之丞一座。見るだけで心がおどります

 「京都文教大学連携講座 大衆演劇と新世界」の12月18日、第2回。
講師は鵜飼正樹さん(社会学教授)(第1回レポートはこちらです)

 大衆演劇がさかんなまちではの熱い講座、その参加者も熱いことが分かりました。「もと役者」という方、ちんどん屋と役者をしているという方、大衆演劇の劇場の裏方をしているという方もありました。

前半 大衆演劇の歴史について

長いですが、以下、レジュメから抜粋:

1.大衆演劇系譜
  • 歌舞伎(明治中頃まで日本の演劇はすべて歌舞伎だった)
  • 新派(明治30年ごろから現代劇)
  • 節劇(浪曲劇 大正時代から)
  • 剣劇新国劇 大正10年ごろ)
  • 女剣劇(昭和15年ごろから)
  • 曽我廼家劇(明治40年ごろ 喜劇→松竹新喜劇
  • 新劇(大正はじめから)

現在は、月替りの興行がほとんどになっていますが、かつては上記のジャンルを専門とする一座が、数日で入れ替わって巡演していたそう。
大都市の大劇場を巡演する一座から、田舎の小さな芝居小屋を巡演する一座まで裾野が広く、関西でも巡演エリアによって「ランク」があったそうです。たとえば、ランクが上とされていたのは阪神エリア、その下とされていたのが、和歌山、奈良、姫路など。阪神が上とされていたので、その「下」のクラスの役者を指して「姫路の役者」という言い方をされていたこともあったとか。


2.「大衆演劇」がさし示していた演劇

大衆演劇」という言葉が使われるようになったのは、昭和10年代。「大衆性を持った演劇」の総称として使われ、中堅歌舞伎、剣劇女剣劇、曽我廼家劇、レビュー、新派、軽演劇、少女歌劇などのことを示し、今日大衆演劇と呼ばれるジャンルのものは、ここからは「除外」されていたそうです。当時の「格付け」では

  • 上:歌舞伎
  • 中:大衆演劇
  • 下:田舎まわりの旅芝居

という図式だったと。

3.では、今でいうところの「大衆演劇」は何と呼ばれていたか。
  • 寄せ芝居
  • ドサ廻り、ドサ芝居
  • 旅役者、旅芝居
  • 村芝居

などと呼ばれていたそうです。

 

4.大衆の支持がなくなってから「大衆演劇」が認知された

戦後、関西の大衆演劇の劇場で販売されていた雑誌『えんげき』という雑誌の昭和29年11月号に、「大衆演劇ファンの雑誌」という表現があり、自分たちのことを「大衆演劇」と呼んでいたことが見て取れる。その一方で新聞記事では「村芝居」「小芝居」「寄せ劇場」「庶民劇団」などと書かれていた、と。

実際にメディアで定着するのはずっと後で、1970年代。テレビが普及し、大衆演劇が興行的に低迷状態になってから「大衆演劇」という呼び名が定着したといいますから、不思議に思いますよね。

それは、1970年代、2.で挙げた芸能(剣劇女剣劇、節劇、小芝居など)は、すでに姿を消し、かろうじて生き残っていた「寄せ芝居」「旅芝居」を指して、「大衆演劇」と呼ばれるようになったというのが、理由のようです。つまり。。。繰り上げ称号?

そして、1980年代、テレビが大衆演劇を取り上げたことで、再び知られるようになり、息を吹き返し、現在に。その立役者が「下町の玉三郎」こと梅沢富美男さん。わたしもテレビで見たのを覚えています。当時はこどもで、このオッチャンのどこがいいのか全くわかりませんでしたが、いまは・・・はい、「トミオ!かっけーっ」とか言うてます笑

 

前半の最後に、昔の劇団の写真を見せてもらいました。一部ご紹介:

f:id:chomoku:20151220072956j:plain

かつてはどの劇団も20名規模の大所帯だったそう。現在は1劇団あたりの構成人数は減少傾向に。

f:id:chomoku:20151220073151j:plain

歌謡ショーでは客席から紙テープが。(これ、いっぺんやってみたい)

f:id:chomoku:20151220073343j:plain
劇場の壁のご祝儀の張り出し。写っているのは「南條すゝむ」さん(現・二代目市川ひと丸さん)

 

 

後半 大衆演劇と大阪・新世界 

ここからが、気になるところでした。なぜ大阪は大衆演劇がさかんで、新世界がそのメッカとなったのか?

いろいろな理由が考えられますが、これ!とはっきり示せるものはないと。よく「大阪だから」と言われますが、じゃあその「大阪だから」って何?となると、漠然としたイメージでしかなく、やはりはっきり言い切れるものはない。

そんななかから、言えることとして、紹介されたのが、「新世界」という地に"劇場"が定着した歴史的事実です。

 明治36年に国内勧業博覧会が現在の天王寺公園から新世界で開催、明治45年に新世界開業式が行われ、通天閣、ルナパークが建てられます。が、そのすぐあと、明治天皇が亡くなられ、興行は「自粛」。大正5年、再び、ルナパークに演芸を中心とした興行のまちに再興、ルナパーク閉園後も、興行場として、演芸場や映画館がひしめき合うまちになったそうです。

f:id:chomoku:20151220083656j:plain

新世界界隈の古地図

 

なかでも2つの館に注目します。1つは朝日劇場。開設当初から芝居を上演しており、100年以上の歴史のある館。そしてもう1つが、浪速クラブ。昭和31年に浪曲専門の劇場としてオープンし、昭和40年ごろから大衆演劇専門のハコになります。1970年代、大衆演劇の劇場が激減したときも、唯一の常打ち小屋であったそうです。すごい!

「日本一粗末な劇場で 日本一安い入場料で 日本一多い入場者と 出演役者の芸熱心が 当館の誇りである」当時、壁に掲げられていた言葉。浪速クラブのサイトにも掲げられていますよね。

これが開設当初の浪速クラブ(とおっしゃられたと思います..)

f:id:chomoku:20151220083502j:plain

他にもいくつか劇場の写真を見せてもらいましたが、いずれも西洋建築でかっこいい建物でした。このころの新世界は、こんな美しい建物がひしめく、夢のような場所だったんだろうなあ。。

 

なぜ、大阪では大衆演劇が盛んで、新世界はそのメッカになったのか?

先に書いたとおり「この問いに対して、ずばりこうだと答えられないのですが」と述べられつつ、考られる要素としてあげられたのが、以下の3つです。

  • 1つめ、1970年代には、東京(関東圏)には3館、九州ではすべてなくなった。1980年代のブーム時、大阪にはまだ4館残っていたこと(神戸にも2館)。つまり大衆演劇が息を吹き返したときに、その受け皿となる劇場が4館も存在していたのが、全国でも大阪だけだった。
  • 2つめ、大阪という都市の規模(多い人口)と都市コミュニティが残る下町があったこと。
  • そして3つめが、先ほどの2つの劇場の存在が大きいのではということ。浪速クラブと朝日劇場という、舞台設備や観客層が対照的なお芝居の常打ち小屋が、新世界のなかでもすぐ近くにあることが、大衆演劇の客層やお芝居の厚み、深み、増幅に、寄与したのではないか。。。

ということでした。
また、参加者のかたから「道頓堀に芝居町があったことが(大衆演劇が大阪で盛り上がる)要因ではないか」という意見も出されました。

 

いろいろなひとが集える場

日劇場と浪速クラブ。ライバルがいることで相乗的に繁栄するのは、B級グルメ対決(舞鶴と呉の肉じゃが発祥の地対決)でも聞きましたので、なるほど納得!なのですが、ここで面白いなあと思ったのは、2つが拮抗するのではなく、対照的であること、です。

客層とお芝居の幅と裾野が広がる。つまり、いろいろなひとが集える。わたしはこのことこそが大衆演劇の重要な部分だと思っていて、また、2つの館がたまたま近くに建てられたという結果オーライな面も、「らしい」と言えるような気がして、ひとりで楽しくなっていました。

最後に、見せていただいた、鵜飼さん所有・古い大衆演劇のポスターから2つ: 

f:id:chomoku:20151220091346j:plain
「山崎ひろし一座」キャッチコピーに「最高峰」とあるのは大げさではなく、めっちゃ人気の役者さんだったそうです

 

f:id:chomoku:20151220091356j:plain

ブログ冒頭と同じものですが「ケレン」が得意だった澤村源之丞一座。
見るだけで心がおどりますよね

 

2日間とも会場ぜんたいが大衆演劇愛にあふれた講座でした。
ありがとうございました!

(*記載内容についてわたしのメモの取り間違いがあるかもしれません。
 その際はお詫び申し上げ、随時訂正していきますのでご容赦ください。)

 

Copyright © chomoku All Right Reserved.